今はやりの自然農法に思うこと

 本来自然は植物の種が地上に落ち、それが芽を出して花を咲かせ、実が熟し、地面に落ちる、すなわち、この行程で人の手は何も入らず、自然の手で行われます。土と水と温度が順調であればたくさん実をつけ、不順であれば実は少なく山の動物は難儀をするわけです。これは完全無欠の摂理でありまして、これ以上何かがあるわけではなし、厳粛にして美しいものあります。この実りこそ自然の力を十分に備えた実であります。人が手も触れず、ただ自然のあるがまま、ここに最高のエネルギーが宿ります。

 しかし、無農薬、有機栽培なるものはひたすら手をかけます。人の手がかかればかかるほどに自然エネルギーは低下します。ここに気がついていないのではないか。たしかに農薬漬けなどとは比べるまでもなくすばらしい方法なのですが、人工のなめこと山のなめこ・管理された畑のワラビと山沢のワラビ、どちらも味・風味、大きな差があります。その差こそエネルギーなのです。山沢のワラビに自然の息吹があり、その味と香りに畑のワラビは太刀打ちできません。これはエネルギーの差なのです。ワラビと言う植物を使って自然界が生み出す味と風味であります。なめこという植物を使って自然界が生み出す味と風味であります。

 このエネルギーを少しでも多く取り入れた栽培方法は、と考え続けているのですが、これが難しい。どこにどのような手を加えればよいのか。生産性の問題であります。収穫する作物がある程度の数量を必要とするわけですから。無農薬、有機栽培が自然に近い、自然にやさしい農法ではないのです。ただ単純に人間の健康に害を及ぼすことが少ない農法であることは間違いのないところですが、人が限りなく手間ひまかけた弱々しい姿をした植物です。そこで手をかけずに作る、植物の自然なる生長を自由に促す、ここを長い間考え続けてきたわけです。未だにうまくはいきませんが。

 基本第一には、有機物などを土に散布したり、すきこんだりするにあたり、発酵菌やすでに発酵菌で処理されている物は入れないことです。発酵は畑の土とそこに住む微生物に完全に任せるべきです。土の命を考えたのです。植物の命を支配するのは土である、その土をどのように見ればよいのか、肥沃な土とはどういうことなのか、土壌菌、土壌微生物は何か、様々な物品や薬品を土に入れすぎているのではないか。ただ簡単に土の上に落葉が積もり、腐り、土となる。この原理を行うことのみで自然は実を得ているわけです。これをそのままにまねをして実行し始めたのです。その地域の自然環境に合致した微生物による自然発酵が最も力強く自然の状況に近づけているようですが。

 活力ある土は微生物豊かであります。植物が生育するに十分な微生物を育てる、これによって土と葉茎の間を根を使って微生物が行きかっている、この状況がわかるにつれて、自然のエネルギーを十分に含んだ植物が少しづつではありますが取れるようになってきたわけです。少しの農薬わずかな化成肥料が散布されたとしてもそれに影響される事もなく、無農薬、有機栽培よりはるかに上質な山里の品々が実ります。無農薬有機栽培が実際にどのように行われているか世間には知られていないのです。